2012年08月25日

ブート・ジョロキア試食

あるお方から千葉県産の生のブート・ジョロキアというレアな食材を送っていただいたので、試食してみました。
生のジョロキアを食べるのは初めてです。

手前の赤いのがジョロキア。見た目はピーマンとかシシトウに似ている。後ろの緑色のはサービス品の鷹の爪。

Jolokia1

ブート・ジョロキアは2007年に世界一辛い唐辛子としてギネス認定された激辛の唐辛子。カプサイシン量はハバネロの2倍以上ともいわれている。

皮膚に付着すると熱くてヒリヒリした痛みが残るので、素手で触るのは非常に危険。
調理にはビニール手袋が必須である。手に付着した状態で目をこすったりすると悲惨なことになる。

ちなみに現在世界一辛い唐辛子とされている豪州の「トリニダード・スコーピオン・ブッチ・テイラー」は、調理するときにガスマスクや防護服が必要になるという。

みじん切り。

Jolokia2

フルーティーな香りが強烈。

内部の種とその周辺の部分が一番辛いのだが、種には毒性があるという説もあるので種を取り除く。

Jolokia3

ごく少量を口に入れてみると、激甚な辛さに襲われる。顔面から汗が滝のように流れ出す。なるほどハバネロとはレベルが違う辛さだ。後を引く容赦のない辛さ。

いつも使っているハバネロのパウダーにごく少量のジョロキアを加えてペペロンチーノに使用。

Jolokia4

ジョロキアは、単体では確かにハバネロ以上に猛烈に辛く、取り扱いには注意が必要ですが、
適量を使用して好みの辛さにもっていければ、非常に美味しいです。フルーティーな香りが爽やかで、食欲をそそります。
ハバネロと同じくらいの量を投入すると、辛すぎる料理になってしまうと思います。

ちなみにジョロキアを丸かじりするとこうなります。



2010年05月13日

ゼロ年代のアニメベスト10

昨年(2009年)の夏に、はてなダイアリーで海燕さんがやっていた、ゼロ年代のアニメから100作品を選んで投票で順位を決めるという「はてなーが選ぶゼロ年代必見のアニメはこれだ!」という企画で、100選の参考サイトの一つとして自分のサイトが挙げられていたので、100作品のリストと人気投票の集計結果を興味深く読ませていただきました。

はてなーが選ぶゼロ年代必見のアニメはこれだ! - Something Orange

「はてなーが選ぶゼロ年代必見のアニメはこれだ!」集計結果。 - Something Orange

ちなみにこの100選で自分が観ているのは、現時点で53本くらいです。ゼロ年代に限らず、昔の有名作品や人気作品で観ていないものも多いので、徐々に観ていきたいと思います。

この100選からは漏れていて、個人的に100選に入れてもいいと思うのは、「アベノ橋魔法☆商店街」(2002)、「マインド・ゲーム」(2004)、「パプリカ」(2006)、「鉄コン筋クリート」(2006)、「河童のクゥと夏休み」(2007)、「サマーウォーズ」(2009)、あたりでしょうか。

個人の趣味で、ゼロ年代のアニメベスト10を現時点で挙げるとすると、だいたい以下の通りです。

第1位 攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX(2002-2003)
第2位 妄想代理人(2004)
第3位 電脳コイル(2007)
第4位 マインド・ゲーム(2004)
第5位 千年女優(2002)
第6位 天元突破グレンラガン(2007)
第7位 トップをねらえ2!(2004-2006)
第8位 プラネテス(2003-2004)
第9位 蟲師(2005-2006)
第10位 映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲(2001)

次点:
スクライド(2001)
千と千尋の神隠し(2001)
アベノ橋魔法☆商店街(2002)
宇宙のステルヴィア(2003)
イノセンス(2004)
交響詩篇エウレカセブン(2005-2006)
パプリカ(2006)
鉄コン筋クリート(2006)
時をかける少女(2006)
涼宮ハルヒの憂鬱(2006)
河童のクゥと夏休み(2007)
コードギアス 反逆のルルーシュ(2006-2007)
サマーウォーズ(2009)

庵野秀明監督の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」は、旧作のリメイクだし、ゼロ年代に公開されたのは「序」(2007)と「破」(2009)だけでまだ進行中なので除外。

その他の作品で印象的だったのは、

デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!(2000)
フリクリ(2000-2001)
灰羽連盟(2002)
プリンセスチュチュ(2002-2003)
R.O.D -READ OR DIE-(2001-2002)
AIR(2005)
かみちゅ!(2005-2006)
スカイ・クロラ(2008)

あたりでしょうか。

押井守は、「イノセンス」(2004)と「スカイ・クロラ」(2008)は「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」(1995)よりは全然良かったけど、1980年代〜1990年代初頭の作品の方がいまだに好きです。

宮崎駿は、1970年代後半〜1980年代前半の作品が一番好きで、ジブリ作品はあまり好きではないのですが、「千と千尋の神隠し」はその中でも比較的楽しめました。

ベスト10に今敏監督作品が2つ、「千年女優」と「妄想代理人」が入っていますが、これは完全に個人の好みです。

谷口悟朗監督作品はどれも面白いです。第8位の「プラネテス」は「スクライド」でも「コードギアス 反逆のルルーシュ」でも可。

細田守監督はゼロ年代後半に「時をかける少女」(2006)と「サマーウォーズ」(2009)でブレイクしましたが、この系列は、優れたエンターテインメント作品であることは間違いないですが、ここに書いたような理由で、自分としてはあまり絶賛したくない気持ちがあります。

新房昭之監督作品は今のところ殆ど未見。「コゼットの肖像」(2004)を観た位です。

新海誠監督作品は、村上春樹的なロマンティシズムが自分の好みからは外れるのですが、「ほしのこえ The voices of a distant star」(2002)以降の作品で、個人または少人数によるアニメ制作の可能性を開拓した点で、画期的なものだったと思います。

京都アニメーションの作品は、観たのは「AIR」(2005)、「涼宮ハルヒの憂鬱」(2006)、「CLANNAD -クラナド-」(2007-2008)くらいで、未見のものが多いです。

アートアニメ系では、アヌシー国際アニメーション映画祭の短編部門のグランプリを受賞した山村浩二「頭山」(2002)や、同グランプリとアカデミー賞短編アニメーション部門最優秀賞を受賞した加藤久仁生「つみきのいえ」(2008)、川本喜八郎他の「連句アニメーション『冬の日』」(2003)、スタジオ4℃の「Genius Party(ジーニアス・パーティ)」(2007)などが印象的でした。

で、ある意味ゼロ年代を代表する作品である、問題の「涼宮ハルヒの憂鬱」(2006)について少し。(劇場版「涼宮ハルヒの消失」(2010)は未見ですが)

一応、ライトノベルというジャンルや「萌え」の要素、「セカイ系」の世界観などをパロディー化しようとする構想が谷川流の原作にはあったと思うんですが、アニメ版を観た限りでは、いまいちパロディーにもなりきれてなくて、むしろ自分が揶揄しようとしているものを自ら再生産しているような感があります。

京都アニメーションによる作画・動画や演出のクオリティの高さは瞠目すべきものがありますが、「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」(1984)や旧エヴァ(1995-1997)が持っていたような自己批評性やSF要素は希薄で、その点では物足りない感じがしました。

素人の自主制作映画にありがちなミスが頻出する「朝比奈ミクルの冒険 Episode00」の演出などは非常に可笑しかったんですが…。

多元宇宙テーマのハードSF+学園ラブコメディーという点で、どうしても「ビューティフル・ドリーマー」を思い出さざるをえないんですが(文化祭のエピソードを描いた第12話では、ハルヒの高校の中に「純喫茶 第三帝国」の看板があって、BDがさりげなく引用されてもいます)、BDから旧エヴァの流れとの比較でいうと、BDでは、夢の無限連鎖から現実に着地した後で、「でも現実も夢かもしれない」というニュアンスを残すことで、再び学園ラブコメに戻れるような円環的な構造になっていましたが、旧エヴァは「現実は夢の終わり」というテーゼを貫くことで、一度その円環を断ち切ったと思うんです。一方、「ハルヒ」はその円環を再び閉じるというか、安心しきってなぞっているだけのような気がします。

「ハルヒ」には「ビューティフル・ドリーマー」の自己批評性も旧エヴァの自己否定も、あるいは「げんしけん」(2004)のような作品がオタクに強いるような緊張感もなくて、逆に開き直ったような自己肯定と安堵感があり、そこが支持されたのかなとも思います。

2009年09月20日

中間報告:新ヱヴァの「序」と「破」の感想(ネタバレあり)

一昨年の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」の続編、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」を劇場で観ました。

「序」と同様に、映像のクオリティーが圧倒的で期待通りでした。

ただ、「破」の段階ではまだ新劇場版の全貌が見えてこないので、まとまった感想は「Q」と完結編を観るまで保留しようと思います。

僕はTV版後半と旧劇場版を高く評価しているのですが(昔書いたエヴァ論はこちら)、新劇場版が、TV版の後半や旧劇場版では切り捨てられた、王道的な物語展開を含む娯楽作品になるとしたら、それは「ありえたかもしれないもう一つの世界」、もう一つの「終局のかたち」であって、それはそれで観てみたい、というのが自分の思いです。むしろ、旧版のダイジェストのような内容で、ただ映像のクオリティーが向上しただけ、という作品では、かえって失望するでしょう。

「序」と「破」を観た限りでは、物語の大枠はまだTVシリーズの世界とそんなにかけ離れてはいないという印象でした。「序」は第六話のヤシマ作戦にいたるまでの物語のリメイクだし、「破」では、第拾八話〜第拾九話の3号機事件と、第弐拾参話の綾波の自爆攻撃のエピソードを組み合わせてクライマックスに持ってきた、という感じだし、シンジの内面の心理描写も、重要なモノローグの部分はちゃんと残されていますし。

シンジがモテすぎるし、綾波が人間的すぎるし、旧版と較べて甘っちょろい、という批判があるみたいですが、僕はそういう印象はあまり受けませんでした。ああいうラブコメディー的な、ほのぼのとした要素は、TVシリーズ最終話の「学園エヴァ」だけではなく、TVシリーズの中盤にもともとあったものですし、シンジと綾波がお互いに心を開き始めた「ヤシマ作戦」以後の展開としてはむしろ自然なものでしょう。TV版の後半や旧劇場版の展開の方が異様だったのであって…

旧版との大きな違いは、3号機パイロットをトウジからアスカに変更したことと、シンジが綾波を救うために自ら行動し、綾波の命が救われる、というところでしょう。

渚カヲルや新キャラのマリの役回りはまだ不明確だし、ここからの展開がどうなるかだと思います。

旧劇場版では、シンジと綾波の融合が母体回帰的な自閉性を象徴していて、アスカがそれを破壊する他者という役割を担っていましたが、今回はどうなるのか…新キャラのマリが旧エヴァの世界観を破壊する他者になるのか…? 今のところ、期待と不安が半々というところです。

先日、「序」のBlu-ray版(ver1.11)を観ましたが、画質はDVDよりもクリアで綺麗でした。修正カットや新作カットも入ってるし、これなら去年DVDを買わなくてもよかった…

2009年07月25日

桐野夏生「OUT」(ネタバレあり)

小説に書かれていない、その後の展開がどうなったのかが気になる。

あの後、香取雅子は佐竹光義の死体をどうしたのか? 十文字彬はおそらく、雅子に行方を告げることなくどこかに身を隠したのだろうし、吾妻ヨシエも自宅に放火した直後で雅子の手助けなどできる状態ではない。以前のように3人で死体を解体して遺棄することなどできなかった筈だ。

佐竹の他殺体はいずれ発見されて、警察は以下の事実を把握する。

・山本健司の殺害事件の重要参考人だったカジノ経営者の佐竹光義が、殺された男、弁当工場の警備員の佐藤義男と同一人物であること。

・佐竹は山本弥生を脅迫し、弥生の兄になりすまして弥生とともに銀行を訪れ、弥生の夫の山本健司の保険金5千万を全額下ろさせている。

・城之内邦子は弁当工場を辞めた後、失踪している(邦子の死体を雅子とヨシエが解体し、十文字が九州で焼却したため、邦子の死はすぐには発覚しないだろう)。

・佐竹が失踪した城之内邦子の車を乗り回しているのを近隣住人が目撃している。

・佐竹は佐藤義男名義で城之内邦子の借金の連帯保証人になっている。

・香取雅子は警備会社に佐藤(佐竹)の住所を問い合わせている。

・香取雅子は佐竹の死後、失踪している。

・邦子の借金を取り立てていたミリオン消費者センターの十文字彬も同時期に失踪している。

更に、佐竹が探偵事務所に調べさせた山本家・香取雅子・十文字彬の調査報告書が佐竹の自宅(412号室)から発見されれば、一連の事件に関わりを持つ人物として警察が香取雅子に注目するのは時間の問題だろう。

弥生かヨシエが、警察の尋問を受けて、すべてを自供してしまうかもしれない。

香取雅子が、殺し合いのような心中のような経緯で佐竹光義を死に至らしめた後、ホテルに数日間潜伏し、海外に高飛びしようとするところで小説は終わっている。

香取雅子は、異国で束の間の「自由」を手にしただろうか?

2009年07月11日

X線検診の医療被曝について

健康診断や人間ドックで受けさせられるX線検診の医療被曝の問題についての議論がありますが、だいぶ前の朝日新聞(2008/1/27)に関連記事が載っていたので、少し引用します。

それによると、「日本人でがんになる人の3.2%はX線診断が原因」(2004年)、「米国でこれからがんになる人の2%はCTが原因」(2007年)という研究結果は、どんなに微量な放射線でもある確率でがんを引き起こすとする「LNT仮説」に基づいており、この仮説が前提としているような、「100_シーベルトより低い線量で発がんの危険性が増す」という証拠は見つかっていない、とのこと。専門家のあいだでも議論が分かれているということか。

発がんを検知するために行なうX線検査が原因でがんになるとしたら馬鹿らしいが、本当にその可能性があるのかどうかはまだわからないらしい。

結論としては、今のところ、微量でもリスクはゼロとはいえないので、X線検査の利益と被曝のリスクを比べて、受けるかどうか判断するしかない、ということか。

しかし、検診の現場ではX線検査のリスクの説明などないし、多くの人が会社などに検診を強制されて、選択の余地なく定期的に被曝しているような気がするのだが…。

同記事には、一般人が日常生活のなかで浴びる放射線の量のデータも書いてあった。

胸部X線CT(1回):6.9_シーベルト
一人あたりの一年間の自然放射線の被曝量:2.4
胃のX線集団検診(1回):0.6
東京〜ニューヨーク航空機旅行(往復):0.2
胸のX線集団検診(1回):0.05

やはり胸部X線CTの被曝量が飛びぬけて大きい。

上記の数値の比較で見ると、飛行機を頻繁に利用する人が、胸のX線集団検診などを恐れるのは滑稽かもしれない。しかし一番滑稽なのは、俺みたいな喫煙者がX線検査を恐れることだろう。医療被曝よりも喫煙などの生活習慣による発がんのリスクの方がはるかに大きいだろうから。

ちなみに、同記事によると日本放射線技師会が2006年から被曝の低減に取り組む医療機関の認定を始めているそうで、認定病院は2008年1月時点で国内に9ヵ所あるとのこと。

2009年03月15日

初心者のための超簡単な西洋音楽史概説

K様

ご要望にお応えして、「初心者のための超簡単な西洋音楽史概説」を書いてみました。おすすめとして挙げたCDは個人的な好みによるもので、すごく偏っているので、参考程度にして下さい。

1.中世

(1)グレゴリオ聖歌(9〜10世紀頃)

ローマ・カトリック教会の典礼で歌われていた、単旋律・無伴奏の宗教声楽曲、「グレゴリオ聖歌」が西洋のクラシック音楽の原点といわれています。

おすすめのCDは、

●グレゴリアン・チャント〜グレゴリオ聖歌(シロス修道院合唱団、イスマエル・フェルナンデス・デ・ラ・クエスタ指揮、1973年)

Canto Gregoriano

1993年頃から、なぜか世界中でこのアルバムが売れまくり、以後、グレゴリオ聖歌が「癒しの音楽」(healing music)としてポピュラー化しました。

グレゴリオ聖歌の録音は他にも沢山あって、その中でこれが特に優れているというわけでもないと思うのですが、有名なのでこれを挙げておきます。

(2)多声声楽の隆盛(10世紀〜15世紀)

10世紀〜14世紀に、それまで単旋律だった音楽が、複数の旋律からなる多声音楽(ポリフォニー)へと発展し、ポリフォニーの声楽はルネサンス期(15世紀)に全盛を極めます。ルネサンス期の作曲家としてはジョスカン・デ・プレなどが有名です。

おすすめのCDは、

●ゴシック期の音楽(ロンドン古楽コンソート、デイヴィッド・マンロウ指揮、1975年)

Music of the Gothic Era

古臭さや堅苦しさを感じさせない、いきいきとしていて爽やかで透明感のある演奏。これはオリジナルは2枚組CDなんですが、国内盤はCD1枚の抜粋盤の方が入手しやすいです。

この時代の声楽のCDは、指揮者のデイヴィッド・マンロウ、女声声楽グループのタリス・スコラーズ、男声声楽グループのヒリヤード・アンサンブル、ソプラノ歌手のエマ・カークビーなどの録音がおすすめです。この辺りのイギリス人による古楽の録音はどれも素晴らしく、ハズレがないです。

2.バロック期(1600年頃〜1750年頃)

16世紀に楽器の改良が進み、器楽が発展して、バロック期に初めて器楽が声楽から独立した一つの音楽形式になります。バロック音楽の特徴としては、通奏低音の使用が挙げられます。バロック期の音楽家では、ヴィヴァルディ、ヘンデル、J.S.バッハなどが有名。特にバッハはルネサンス期以後の対位法様式(複数の旋律を調和させて重ね合わせる技法)を完成させた巨匠として別格の存在です。

バロックの定番曲としては、ヴィヴァルディの協奏曲集「四季」、ヘンデルの「水上の音楽」、パッヘルベルの「カノンとジーグ」などが有名ですが、優秀な録音も多いので、ここではおすすめCDは特定しません。

1970年代以降、バロック期とその近辺の音楽を、現代楽器ではなく当時のオリジナルに近い楽器で演奏する傾向(古楽運動)が現われ、現在ではこの傾向が古楽演奏の主流になっています。古楽器による演奏の指揮者としては、ニコラウス・アーノンクール、クリストファー・ホグウッド、トレヴァー・ピノック、ジョン・エリオット・ガーディナーなどが有名で、名録音が多いです。

バッハのおすすめのCDは、

●バッハ/ゴルトベルク変奏曲(グレン・グールド、1981年)

The Goldberg Variations

グレン・グールドの現代ピアノによる演奏。この曲は本来はチェンバロ(バロック期に使われた鍵盤楽器)のための曲で、ピアノ曲ではないんですが、あまりにも素晴らしい演奏なので挙げておきます。テンポが極端に速かったり遅かったり、奇抜な解釈ですが、スタッカートを多用した鮮烈で歯切れのよい演奏です。

3.古典派(18世紀後半〜19世紀初頭くらい)

バロック期までは、音楽は教会と貴族階級の専有物でしたが、この頃になると市民階級にも開放されてきます。古典派はバロックにくらべると単旋律的で、端正な形式と均斉を重視します。古典派ではハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンが代表的な作曲家です。交響曲や協奏曲、ピアノソナタ、弦楽四重奏曲などの形式が確立したのもこの頃です。

おすすめのCDは、

●ベートーヴェン/交響曲第3番「英雄(エロイカ)」(ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、1952年)

Symphony No.3 'Eroica'

ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄(エロイカ)」は、その後の長大な交響曲の端緒となった画期的な作品。劇的で勇壮な音楽。第2楽章の葬送行進曲は有名。ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団演奏。古いモノラル録音ですが熱い演奏です。余談ですが、二ノ宮知子のマンガ「のだめカンタービレ」第3巻で千秋が指揮してSオケが演奏した曲ですね。

●モーツァルト/交響曲第40番、第41番「ジュピター」(ヘルベルト・ブロムシュテット指揮、ドレスデン・シュターツカペレ、1981年)

Symphonies Nos.40 & 41 'Jupiter'

第40番は悲愴な旋律美、第41番は宇宙的な感覚。他にもいい録音は沢山あるので、指揮者・演奏者はお好みで。

4.ロマン派(19世紀)

19世紀はだいたいロマン派の時代です。ロマン派の特徴は、感情表現の重視、独唱歌曲(ドイツ・リート)の確立、ピアノ曲の形式の拡大(バラード、ノクターン、即興曲など)、文学や絵画の影響、標題音楽(交響詩など)、国民性に根ざした楽曲(国民楽派)、劇的なオペラの発展、大規模で長大な交響曲の発展、などです。作曲家でいうと、シューベルト、ブラームス、ショパン、ベルリオーズ、メンデルスゾーン、リスト、シューマン、ベルディ、プッチーニ、ウェーバー、ワーグナー、ムソルグスキー、チャイコフスキー、スメタナ、ドヴォルザーク、リヒャルト・シュトラウス、ブルックナー、マーラー…等々。

おすすめのCDは…ロマン派を数枚のCDで代表させるのは不可能なので、ここは完全に個人の趣味で2枚だけ選びます。

●ショパン/ピアノ協奏曲第1番(マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)、ロンドン交響楽団、クラウディオ・アバド指揮、1968年)

Piano Concertos

ショパンのピアノ協奏曲第1番は、青春の甘く切ない思い出を歌い上げるような、繊細な詩情と感傷に満ちあふれた初期ロマン派の名曲。マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)、ロンドン交響楽団演奏、クラウディオ・アバド指揮。リストのピアノ協奏曲第1番とのカップリング。

●ブラームス/後期ピアノ作品集(ヴァレリー・アファナシエフ、1992年)

3 Intermezzi Op.117, 6 Klavierstücke Op.118, 4 Klavierstücke Op.119

ロシアの個性派ピアニスト、ヴァレリー・アファナシエフの録音。時々極端にテンポが遅くなる独特の解釈。寂寞感と静謐感あふれる美しい演奏。ブラームスの晩年のピアノ小品はグレン・グールドの録音が絶品ですが、これもかなりいいです。

5.近代(20世紀初頭〜第2次世界大戦頃)

この頃の主な動向としては、印象主義(ドビュッシー、ラヴェル、サティ)、原始主義(ストラヴィンスキー)、新古典主義、表現主義(無調音楽)〜12音技法(シェーンベルク、ベルク、ウェーベルン)、民俗音楽の導入(バルトーク、コダーイ)、ジャズの影響とポピュラーへの越境(ガーシュウィン、コープランド)などがあります。

おすすめのCDは、

●ドビュッシー、ラヴェル/弦楽四重奏曲(アルバン・ベルク四重奏団、1984年)

Debussy, Ravel/String Quartets

印象派の弦楽四重奏の名作として著名なドビュッシーとラヴェルの弦楽四重奏曲のカップリング。

●ストラヴィンスキー/春の祭典(アンタル・ドラティ指揮、デトロイト交響楽団、1980年)

The Rite of Spring, Petrushka

ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」は原始的で狂暴なリズムと変拍子、不協和音を多用した刺激的な曲。この曲もいい録音が沢山あるので指揮者・演奏者はお好みで。

●プロコフィエフ/ロメオとジュリエット(抜粋)(シャルル・デュトワ指揮、モントリオール交響楽団、1990年)

Romeo and Juliet

シェイクスピアの戯曲を題材とするプロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」は、モダンバレエの最高傑作の一つ。シャルル・デュトワ指揮、モントリオール交響楽団による抜粋(ハイライト)盤。激しい打楽器音や不協和音を使用した、鮮烈で躍動的な作品ですが、抒情的で美しい旋律もありおすすめです。

6.現代(20世紀後半〜)

「不協和音を多用した、耳障りな前衛音楽」というイメージが強い現代音楽ですが、主な動向としては、電子音楽、録音技術を駆使したミュージック・コンクレート、偶然性の導入、トーン・クラスター技法(ある音域の全ての音を同時に発する房状和音)、反復と漸次的変化の音楽としてのミニマル・ミュージック、などがあります。

おすすめのCDは、

●メシアン/トゥーランガリラ交響曲(ケント・ナガノ指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、2000年)

Turangalîla Symphonie

フランスの作曲家、オリヴィエ・メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」は、オンド・マルトノ(電子楽器)を使用した大規模なオーケストラ曲。現代音楽の傑作の一つ。20世紀管弦楽の記念碑。極彩色の官能美。日系アメリカ人のケント・ナガノ指揮、ピエール=ローラン・エマール(ピアノ)も参加のライヴ録音。

●スティーヴ・ライヒ/大アンサンブルのための音楽(スティーヴ・ライヒ、1980年)

Octet, Music for a Large Ensemble, Violin Phase

「八重奏曲」「ヴァイオリン・フェイズ」「大アンサンブルのための音楽」を収録。「大アンサンブルのための音楽」はミニマル技法を大規模なアンサンブルに適用した作品。延々と繰返される反復が気持ちいいです。

2008年11月24日

マルティン・ハイデガーと西田幾多郎のファシズム加担について

マルティン・ハイデガーと西田幾多郎のファシズム加担について



本稿は、マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger、1889-1976年)と西田幾多郎(1870-1945年)の哲学と彼等のファシズム加担の関係を分析することを目的とする。

ハイデガーと西田の仕事は、現代の産業資本主義の発展を背景に、そのイデオロギーである近代哲学の内在的批判を試みたという点で、今日でも批判的な検討に値する。彼等はともに、近代認識論の「主観/客観」の枠組と近代社会理論の個人主義(atomism)を批判し、後にそれらの批判を近代ヒューマニズム(人間中心主義)批判として展開した(ハイデガー『世界像の時代』、西田幾多郎『人間的存在』を参照)。また彼等は、観念形態(同一性)をそれが生み出される根源的な差異(関係)の場において捉えることにより、伝統的な哲学(形而上学)の根源的な批判を試みた。これらの点で、彼等の哲学は現代のポストモダニズムの論点を先取りしている。

しかし、彼等の哲学は、第一次大戦後の世界資本主義の帝国主義段階、特に後発帝国主義国としてのドイツと日本における危機的状況に対応する政治的イデオロギーと内在的に連関しており、1930年代以降の歴史的文脈において、その観念論および共同体主義により、ファシズム・イデオロギーに近接した。この観念論および共同体主義への理論的後退が、彼等のファシズム加担の一契機となったと考えることができる。

1. マルティン・ハイデガー

(1) 『存在と時間』とナチズム・イデオロギー

ここではハイデガーの未完の主著『存在と時間』(1927年)を中心に、彼の初期の哲学的著作の分析を行なう。

a. 共同存在

ハイデガーは『存在と時間』で、「認識する主観の存在様相」としての「共同存在」(Mitsein)という概念を提示し、近代認識論の「主観/客観」の枠組と近代社会理論の個人主義を、社会的協働関係における人間の共同主観的なあり方に定位することにより批判したが、この「共同存在」という概念は、ある文脈では、人間が共同体=民族の成員として、運命としての歴史を共有することを意味しており、その意味ではナチズムの「民族共同体」(Volksgemeinschaft)の理念に近似している。

b. 決意性

また、同著で彼がいう、現存在にとっての本来性としての「決意性」(Entschlossenheit)とは、不安によって孤独化された現存在が、沈黙としての「良心の呼び声」の聴取によって世間から自己を連れ戻し、自己を共同存在のなかへ投げ入れることを自ら選択し、決断すること、であるが、これは、共同体の成員として、世論の支配に抗し、考察や討議によって吟味されることなく絶対化された自らの主観を拠りどころとして、無根拠かつ無意味に、決断=行動すること、つまり、共同体の成員としての盲目的な挺身、邁進を意味する。エルンスト・ユンガーやカール・シュミットにもみられるこの決断の自己目的化としての「決断主義」は、議会主義(多数決原理)の不決断に対して独裁(指導者原理)による決断を対置し、自らこれを実行したナチズムのニヒリスティックな行動主義(能動的ニヒリズム)の思想的先取りと考えることができる。

「決意性」は、「『沈黙』の様態で話す」「良心の呼び声」の聴取として定義されているが、「沈黙」とは他者との言語的コミュニケーション(対話)の拒否を意味する。ヒトラーは、誠実、献身に加えて「沈黙」を、「大民族が必ず必要とする徳」(『わが闘争』)として称揚したが、これは議会での代表者の討論を経た後に政策を決定するという政治過程を否定するものである。1935年の講義『形而上学入門』にもこの「決意性」の概念への言及がある。

c. 情緒性(気分)の優位

ヒトラーは大衆の情緒性を評価し、知性よりも感情に訴える扇動的な宣伝や演説を重視したが、ハイデガーも『存在と時間』で、知性(認識)に対する感情(気分)の優位、根源性を強調し、演説を大衆の情緒に訴えるものと述べている。この感情の根源性については、1936〜1937年の講義『芸術としての力への意志』にも言及がある。

d. 精神

ハイデガーは「共同存在」という概念によって近代認識論の「主観/客観」関係を批判し、後にその批判を近代ヒューマニズム(人間中心主義)批判として展開したが、その一方で、『存在と時間』の第81節・82節では、根源的なものとしての「精神」(Geist)の概念を観念論的に蘇生させている。『形而上学入門』でも、ドイツ観念論を称揚しつつ、ヘーゲル的な「精神」の概念を復権している。

(2) ナチズム加担―「精神」としての決意性

ここでは、ヒトラー政権下においてハイデガーがナチズム支持を表明した政治的なテクストと、彼の哲学的著作との関連について述べる。ハイデガーのナチズム加担の事実と経緯の詳細については、ヴィクトル・ファリアス『ハイデガーとナチズム』を参照。

a. フライブルク大学総長就任演説『ドイツ大学の自己主張』(1933年)

ヒトラー政権成立から約3ヶ月後の1933年5月、ハイデガーはナチ党に入党し、フライブルク大学総長の就任演説(『ドイツ大学の自己主張』)を行なった。ナチズムの「民族共同体」の理念に対する全面的な支持を表明したこの演説は、「民族」、「精神」、「存在」、「決意性」などの基本的な語彙および文脈を『存在と時間』から受け継いでいる。カール・レーヴィットによれば、この演説は、「ハイデガーの歴史的実存の哲学をドイツの諸現象のなかに移しこんだものであり、これによって、彼の現実に働きかけていく意志が、その足場を得、実存的諸範疇の形式的輪郭が、決定的内容を獲得したもの」(『カール・シュミットの機会原因的決断主義』)である。

b. 『ドイツの男女よ!』(フライブルク学生新聞、1933年)

1933年11月の国民投票において、ハイデガーはフライブルク大学の学生を率いて投票場へ行進させ、ヒトラーの政策への賛成投票を行なわせた。そのときに彼が大学総長として行なった投票へのアピールが、フライブルク学生新聞に掲載された小文『ドイツの男女よ!』である。ここで唱えられている「決断」とは、指導者(ヒトラー)の独裁を無条件に支持することである。同月、ハイデガーは、ヒトラーを支持するドイツの学者の政治集会での演説でも同様のアピールを繰返している。

c. 『われわれはなぜ田舎にとどまるか?』(1934年)

ハイデガーは1934年3月にラジオ放送された講演『われわれはなぜ田舎にとどまるか?』において、都市の生活を批判し、自らの哲学が郷土の農村共同体に帰属することを強調しているが、ここにはナチズムの農本主義イデオロギーに対する賛同を読みとることができる。このテクストはナチ党の機関紙に掲載されている。

(3) 1930年代以降の新たな諸論点―形而上学批判、「存在」概念の神秘化

1930年代のいわゆる「転回」以降、ハイデガーは形而上学批判という論点を主題化し、『存在と時間』の段階から理論的に前進したが、その一方で、「存在」の概念を自己発展的な実体とみなす神秘主義に陥った。

a. 形而上学批判

ハイデガーは1940年の講義『ヨーロッパのニヒリズム』や1957年の講演『形而上学の存在‐神‐論的様態』などのテクストにおいて、存在と存在者との「存在論的差異」(die ontologische Differenz)という概念を提示し、西洋形而上学(理性=ロゴスによる存在者全体の把握)が、「同一性/差異」という二項対立そのものを派生させるような根源的な差異を隠蔽・忘却することによって成立することを指摘した。では、ハイデガーがいう「存在」とは何か。

b. 「存在」概念の神秘化

ハイデガーの「存在」概念は、1930年代以降、『形而上学入門』などのテクストにおいて、ギリシア哲学でいう「ピュシス」(Physis=自然)を意味するものとして、積極的な規定を与えられた。ハイデガーにとっての「存在」とは、それ自身の力によって展開する実体という神秘的な概念である。ジョージ・スタイナーが指摘するように、「存在」の概念が「ハイデガーのテクストの多くの重要なページにおいて、『一者』、『第一原理』、『絶対者』、単純には『神』の置き換え」(『ハイデガー』)であることは明らかである。「存在」という概念こそが形而上学的なのだ。

2. 西田幾多郎

(1) 個と一般性の相剋

西田幾多郎は『善の研究』(1911年)その他の著作によって、明治以降の日本の近代化、すなわち日本資本主義の発展とその帝国主義への転化を背景に、日本の伝統的な観念形態を西洋哲学(特にヘーゲル)の概念を援用して論理化する、独自のイデオロギッシュなブルジョワ観念論哲学を創始した。そのため、西田の思想行程においては、西洋的=近代的な個人と日本的=前近代的な共同体原理に基づく天皇制国家とのあいだの葛藤が、個と一般性の相剋という論理的主題として追究されていると考えることができる。ここでは、西田哲学の形成過程における個と一般性の相剋を、『善の研究』、『場所』(1926年)、『私と汝』(1932年)、『弁証法的一般者としての世界』(1934年)、『絶対矛盾的自己同一』(1939年)の5つのテクストを中心に追跡する。

a. 『善の研究』(1911年)

1911年の著作『善の研究』では、意識現象を唯一の実在とする、ウィリアム・ジェームズ的な「純粋経験」論、および概念を自己発展的実体とみなすヘーゲル的な観念論の立場から、近代認識論の「主観/客観」の枠組と近代社会理論の個人主義の双方が批判されている。

個と一般性の主題についてみれば、西田はここでは、ヘーゲルにならって個人性を一般性の自己限定として捉えており、これは政治的には個人を共同体(国家)の部分とみなすことを意味している。西田は@家族→A国家→B(理想としての)人類的社会の団結、という「社会的意識」の発展段階説を唱えているが、この説は、国家を家族の延長とする点で、ヘーゲルが構想した、家族→市民社会→国家という「自由」の概念の発展段階説とは異なっている。西田のこの説は、天皇制の支配原理を正統化するイデオロギーとしての「国体」思想に対応するものである。

また西田は、実在の根底に「神」の存在を認め、宗教を人と絶対的超越者との関係としてではなく、共同体的・血族的関係として定義しているが、超越者を共同体内部の人格のうちに見出すこの宗教観も天皇制に符合している。

以上のように西田は、個人主義と国家主義を折衷し、個人の独立性を消去してしまう。山田宗睦は、『善の研究』が、「北村透谷にはじまった『想世界』の公的実現、すなわち、天皇制から独立に自立した思想の生産と流通する世界をうみだすこと」(『日本型思想の原像』)を意図していたと述べているが、『善の研究』が天皇制から真に自立しうるような社会思想を形成しえていないことは明らかである。

b. 『場所』(1926年)

西田は『善の研究』における「純粋経験」の立場から、『自覚に於ける直観と反省』(1917年)その他の論文における「自覚」の立場を経て、1926年の論文『場所』において、その後の西田哲学の方向を決定する「場所の論理」へと移行する。西田は、関係の項と関係そのものを区別し、「関係を統一するもの」としての一般概念から区別されるところの「関係が於いてあるもの」を「場所」と呼んだ。「場所」とは固定した実体(有)ではなく、流動的な関係が「於いてあるもの」として「無」である。「純粋経験」および「自覚」の立場では、意識体系が統一的に発展するという一元論が唱えられていたが、「場所」の概念の導入により、一般性そのものを成立させる場としての根源的な差異という理論的視界が拓かれ、一般性に包摂されえない個の独立性、個人の主体性に着目することが可能となった。しかし西田は、「場所」を「無」の一般者として解釈することにより、その意義を自ら否定してしまう。西田はこの段階でも個をあくまで「一般者の自己限定」として捉えていた。

c. 『私と汝』(1932年)

1932年の論文『私と汝』では、自己と他者の社会的関係の外部性が論じられており、個は一般性に包摂されえない絶対的な単独性において捉えられているが、同時に個をあくまで「一般者の自己限定」としても捉えており、あからさまな矛盾に陥っている。西田はこの矛盾を、「絶対に他と考えられるもの」を「自己に於て見る」というかたちで解消した。西田は他者を自己の意識に内面化することにより、社会的関係の外部性を消去したのである。

d. 『弁証法的一般者としての世界』(1934年)

1934年の論文『弁証法的一般者としての世界』では、後に「絶対矛盾的自己同一」という概念によって定式化される西田哲学の最終形態の論理が提示されている。ここで西田は、個の単独性(独立性)を個と個との社会的諸関係に見出し、個と個が互いに限定しあう、「個物と個物との相互限定」という概念を導入した。個の多数性を強調するこの視点は、全体を一つの一般者による有機的統一とみるヘーゲル的な一元論とは異なる、ライプニッツの単子論のような一種の多元論であるが、ここにおいて、個と一般性の相剋は、「部分」と「全体」の関係として、「一々の部分が独立」でありかつ「それが全体の意義を有する」というかたちで、すなわち「一即多、多即一」という論理的飛躍によって強引に統一されてしまう。この詭弁的論理によって、個の独立性を認めつつ個を共同体のうちに統合するという欺瞞が改めて正当化される。西田の哲学は、いくら個の独立性・多数性を強調しても、個を限定するものとしての一般性をその基底に置くかぎり、結局一元論に舞い戻るほかない。

e. 『絶対矛盾的自己同一』(1939年)

1939年の論文『絶対矛盾的自己同一』で提示された「絶対矛盾的自己同一」の概念は、前項で述べたように、絶対に矛盾するもの、すなわち個と一般性が同一であるということを意味する。この概念は、西田の社会理論の文脈では、「倫理的実体」としての国家とその形成要素としての個人を媒介するものとして使用されている。国家を価値的実体とするこの論理は、丸山真男が指摘したように、天皇制を中核とする近代日本の国家主義イデオロギーの特徴である(『現代政治の思想と行動』)。

(2) 『世界新秩序の原理』(1943年)と西田哲学

以上にみたように、西田の哲学は当初から天皇制国家の支配原理に対して親和的であり、その観念論と共同体主義は『善の研究』以来一貫している。その帰結として、西田哲学は1930年代以降の歴史的文脈において、天皇制ファシズムを理論的に正当化するイデオロギーとなった。太平洋戦争下の1943年に西田が書いた政治文書『世界新秩序の原理』は、その正当化の論理を展開したものである。

『世界新秩序の原理』は、東條内閣が「大東亜共栄圏」構想のための「大東亜共同宣言」の作成にあたり、その「参考資料」として西田にその理念の起草を依頼し、西田がこれに応えて書いたものである。西田の弟子筋の三木清は、すでに日中戦争の段階で、近衛文麿側近の知識人集団「昭和研究会」に参加し、近衛内閣による「東亜新秩序声明」(1938年)に呼応するかたちで「東亜新秩序」=「東亜共同体」論を提起していたが、西田による太平洋戦争の正当化は、この三木の立論に沿ったものであった。

西田は1938年の講演『日本文化の問題』で、日本の皇室を、「主体的なるものを超越」する、「主体的一と個物的多との矛盾的自己同一」と捉える皇室中心主義を唱えていたが、『世界新秩序の原理』では、この皇室中心主義に基づき、個が個でありつつ有機的な全体的統一を形成するという論理によって、国家が国家でありつつ国家を超えたブロックを構成するという天皇制ファシズムの超国家主義が合理化され、帝国主義諸国の世界再分割闘争の一環としての日本の対アジア侵略と対米戦争がイデオロギー的に正当化されている。

(3) 西田哲学における「主体」の消去

西田哲学の方法は、戸坂潤が『日本イデオロギー論』で批判したように、ロマン主義的・ドイツ観念論的な「世界の解釈」に終始するものであった。それは小林秀雄が「他人というものの抵抗を全く感じ得ない」(『学者と官僚』)と評したように、「他者」を欠いていたのであり、西田は日本国家を「倫理的実体」とみなしてこれに依拠することにより、他者との社会的関係においてのみありうる個人の倫理的な主体性を消去したのである。

3. 総括―ロマン主義的反動としての近代批判

ハイデガーと西田の「近代」批判は、主観主義、個人主義、ヒューマニズム(人間中心主義)等のブルジョワ・イデオロギーを産業資本主義との関係において捉え、これを内在的に批判した点では評価できるが、その批判は観念論の枠内にとどまり、資本制そのものに及ぶものではなかった。彼等は、世界資本主義の帝国主義段階における国家独占資本主義体制への移行とそれに基づく経済的=政治的ブロックの形成(ドイツを中心とするヨーロッパの統合、日本を中心とするアジアの統合)をイデオロギッシュに追認したにすぎない。

彼等は近代哲学の個人的=普遍的な主観に対して共同的=民族的な主観を対置したが、このようなロマン主義的反動としての近代哲学批判は、ドイツの資本主義の発達の後進性(市民社会の未成熟)を背景にして形成されたドイツ観念論哲学にすでにみることができる。ヘーゲルの絶対的観念論および社会有機体論には啓蒙主義と個人主義に対する批判が含意されており、ハイデガーはその伝統を継承している。一方、日本では、伝統的=前近代的な共同体原理にもとづく天皇制国家の形成によって近代的な市民社会の成長が阻止されるという状況のなかで、ドイツ哲学を模範として独自の観念論哲学を創始したのが西田幾多郎であり、西田哲学も基本的にロマン主義的な観念論の域を出ることはなかった。

(1991年作成、2008年改稿)

―参考文献―

<ハイデガー>
ハイデッガー『形而上学入門』、川原栄峰訳、理想社、1960年
ハイデッガー『同一性と差異性』、大江精志郎訳、理想社、1960年
ハイデッガー『存在と時間』上・下、細谷貞雄、亀井裕、船橋弘訳、理想社、1963年
ハイデッガー『カントと形而上学の問題』、木場深定訳、理想社、1967年
ハイデッガー『有の問いへ』、柿原篤弥訳、理想社、1970年
マルティン・ハイデガー『ニーチェ』T・U・V、薗田宗人訳、白水社、1986年
ハイデッガー全集第5巻『杣径』、茅野良雄、ハンス・ブロッカルト訳、創文社、1988年
ハイデッガー全集第9巻『道標』、辻村公一、ハルトムート・ブフナー訳、創文社、1985年
カール・レーヴィット『ハイデッガー―乏しき時代の思索者』、杉田泰一、岡崎英輔訳、未来社、1968年
ジョージ・スタイナー『ハイデガー』、生松敬三訳、岩波書店、1980年
ヴィクトル・ファリアス『ハイデガーとナチズム』、山本尤訳、名古屋大学出版会、1990年
ジャック・デリダ『精神について―ハイデッガーと問い』、港道隆訳、人文書院、1990年
原佑『ハイデッガー』、勁草書房、1958年
木田元『ハイデガー』、岩波書店、1983年

<西田幾多郎>
西田幾多郎『善の研究』、岩波書店、1921年
西田幾多郎『思索と体験』、岩波書店、1919年
西田幾多郎『哲学の根本問題 続編(弁証法的世界)』、岩波書店、1934年
西田幾多郎全集第二巻『自覚に於ける直観と反省』、岩波書店、1965年
西田幾多郎全集第四巻『働くものから見るものへ』、岩波書店、1965年
西田幾多郎全集第六巻『無の自覚的限定』、岩波書店、1965年
西田幾多郎全集第九巻『哲学論文集 第三』、岩波書店、1965年
西田幾多郎全集第十巻、岩波書店、1965年
西田幾多郎全集第十二巻、岩波書店、1966年
上山春平『絶対無の研究』―上山春平責任編集『西田幾多郎』(中央公論社、1970年)所収
鈴木亨『西田幾多郎の世界』、勁草書房、1977年
下村寅太郎全集12『西田哲学と日本の思想』、みすず書房、1990年

<マルクス主義とイデオロギー論>
カール・マルクス/フリードリヒ・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』、廣松渉編訳、河出書房新社、1981年
戸坂潤『日本イデオロギー論』、岩波書店(文庫)、1977年
ルイ・アルチュセール『国家とイデオロギー』、西川長夫訳、福村出版、1975年
廣松渉『マルクス主義の地平』、勁草書房、1969年

<政治・権力論>
マックス・ヴェーバー『社会学の根本概念』、清水幾太郎訳、岩波書店、1972年
マックス・ヴェーバー『職業としての政治』、脇圭平訳、岩波書店、1980年
カール・シュミット『政治的なものの概念』、田中浩、原田武雄訳、未来社、1970年
カール・シュミット『政治神学』、田中浩、原田武雄訳、未来社、1971年
ミシェル・フーコー『監獄の誕生 ―監視と処罰―』、田村俶訳、新潮社、1977年
ミシェル・フーコー『性の歴史 T 知への意志』、渡辺守章訳、新潮社、1986年

<ファシズム・天皇制論>
ニコス・プーランツァス『ファシズムと独裁』、田中正人訳、社会評論社、1978年
山口定『ファシズム』、有斐閣、1979年
丸山真男『現代政治の思想と行動』増補版、未来社、1964年
藤田省三『天皇制国家の支配原理』第二版、未来社、1966年

<思想史>
E・フッサール、M・ハイデッガー、M・ホルクハイマー『30年代の危機と哲学』、清水多吉、菅谷規矩雄他訳、イザラ書房、1976年
ルカーチ著作集12・13『理性の破壊』、暉峻凌三、飯島宗享、生松敬三訳、白水社、1968年
カール・レーヴィット『ヨーロッパのニヒリズム』、柴田治三郎訳、筑摩書房、1948年
カール・レーヴィット『カール・シュミットの機会原因論的決定主義』―カール・シュミット『政治神学』(田中浩、原田武雄訳、未来社、1971年)所収
脇圭平『知識人と政治―ドイツ・1914〜1933―』、岩波書店、1973年
生松敬三『人間への問いと現代―ナチズム前夜の思想史』、NHKブックス、1975年
八田恭昌『ヴァイマルの反逆者たち』、世界思想社、1981年
古田光『日本的観念論哲学の成立』―遠山茂樹、山崎正一、大井正編『近代日本思想史』第二巻(青木書店、1956年)所収
古田光『西田幾多郎』―務台理作、山崎正一編『近代社会思想史論』(青木書店、1959年)所収
古田光『十五年戦争下の思想と哲学』―古田光、作田啓一、生松敬三編集『近代日本社会思想史 U』(有斐閣、1971年)所収
山田宗睦『日本型思想の原像』、三一書房、1961年
廣松渉『<近代の超克>論―昭和思想史への一断想』、朝日出版社、1980年
加藤周一『日本人とは何か』、講談社(文庫)、1976年
福田恒存編集・解説『反近代の思想』、筑摩書房、1965年
柄谷行人『ファシズムの問題―ド・マン/ハイデガー/西田幾多郎』―柄谷行人『言葉と悲劇』(第三文明社、1989年)所収
柄谷行人『ライプニッツ症候群―西田哲学』―『季刊思潮』第三号、思潮社、1989年
竹内芳郎『ポスト=モダンと天皇教の現在―現代文明崩壊期に臨んで』、筑摩書房、1989年
『季刊思潮』第四号「<近代の超克>と西田哲学」、思潮社、1989年
『現代思想』第十六巻第三号「特集=ファシズム <精神>の宿命」、青土社、1988年
『現代思想』第十七巻第五号「総特集 ファシズム」(臨時増刊号)、青土社、1989年

2006年09月23日

アニメ映画「時をかける少女」雑感

筒井康隆原作、細田守監督のアニメ映画「時をかける少女」を劇場で観て来ました。(2006年9月)

ハードなSFでもリアルな人間ドラマでもない、さわやかですがすがしい青春物語、恋愛ファンタジーとしての原作小説(1965年)の本質を生かし、現代的にうまくアレンジした佳品であり、おおむね楽しく観ることができました。

細田監督といえば緻密な演出、カット割りやレイアウトの妙で知られていますが、「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」(2000年)や「ワンピース THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島」(2005年)と同様に今回も観客を飽きさせない工夫が凝らされており、退屈はしませんでした。

時代設定は現代になっていて、主人公の性格も原作から大きく変わっていますが、基本的な人物配置とプロットは原作を踏襲しており、原作や1983年の実写映画版に思い入れがある人でもそれほど抵抗なく入っていけるものと思います。

一度失敗したことを過去に遡行して何度でもやり直そうとする主人公がコミカルで笑えました。

J.S.バッハの名曲中の名曲「ゴルトベルク変奏曲」を劇中の印象的なシーンで使っているのは個人的には反則と思いました。というか私はグレン・グールドの録音を聴いて以来この曲が大のお気に入りで、この曲が流れると音楽自体に聴き入ってしまうのでかえって集中できません。

この映画の爽快さは基本的には近藤喜文監督、スタジオジブリ制作の映画「耳をすませば」(1995年)と同種の爽快さ、つまり、良し悪しは別にして、純化されたファンタジーロマンスの爽快さです。それは清純で美しい世界ですが、あまりにも理想的で、人によっては疎外感を感じるかもしれません。現実の世界はもっとエゴイズムや暴力、悪意に満ちており、こんな世界は嘘だ、と。

そこで思い出すのは、1983年の実写映画版の公開時に筒井康隆氏ご本人が「SFアドベンチャー」誌に発表した「シナリオ・時をかける少女」という短編です。それは、暴力中学生たちが荒れ狂う荒廃した中学校内で映画「時をかける少女」の撮影が行われている(現実内虚構)という設定の、自虐的なセルフ・パロディーです。当時すでにこの「シナリオ・時をかける少女」で「時かけ」の虚構性を原作者自身がコケにして嘲笑っていたわけです。

筒井作品の読者ならご存知の通り、筒井氏はナンセンスなドタバタコメディーやアクの強いブラックユーモア、悪夢や狂気を追求した夢幻的な作品やメタフィクション等の実験的な作品が真骨頂の作家であり、「時かけ」のような青春ジュヴナイルは氏の本来の資質からは程遠い作品です。筒井氏ご本人は、そういう意味で「時かけ」がTVドラマや映画として何度も映像化され、脚光を浴びるという事態に対して複雑な思いがあったのだろうと推察します。

12歳のときから筒井作品の熱狂的な読者になり、骨の髄までツツイ菌の毒に侵されていた私は、「時かけ」実写映画版を観て原田知世のイノセントな美しさに魅了されながらも、一方でこの「シナリオ・時をかける少女」を読んで溜飲が下がったというか、これでやっと「現実」と「虚構」のバランスが取れた、というような爽快感を感じていました。

「筒井康隆原作のアニメ映画」としては、「時かけ」と同じくマッドハウス制作で今敏監督の「パプリカ」が来年(2007年)の公開を控えています。劇場で予告編を観ましたが、私としては「時かけ」よりもこちらの方が「本命」です。今敏監督は、「PERFECT BLUE」(1997年)も「千年女優」(2002年)も「妄想代理人」(2004年)も素晴らしかったし、資質や作風がもともと筒井氏に近い方なので期待しています。

劇場版アニメーション「時をかける少女」公式サイト:
http://www.kadokawa.co.jp/tokikake/

マッドハウス公式サイト:
http://www.madhouse.co.jp/

筒井康隆公式サイト:
http://www.jali.or.jp/tti/

2005年08月24日

萌えバトン

「ミュージック・バトン」「コミック・バトン」「ゲーム・バトン」に続いて、「萌えバトン」というものが友人のほどり君から回って来ましたので回答します。(2005年8月)

脳髄茸:萌えバトン

今回は軽く流していきます。

■属性を正直に告白せよ
年齢:中学生以上〜30代(コドモ不可)
貧乳
ボーイッシュ可
髪の長さ:ショート〜ミディアム
サラサラ直毛
ナチュラルメイク
ド近眼でコンタクトと眼鏡を使い分けている(自分もそうですが)

■萌え衣装を答えよ
地味・質素・モノトーン系

■萌え小道具を答えよ
ハードカバーの本
眼鏡


■萌え仕草を答えよ
ハードカバーの本を読む
眼鏡の位置を直す
銃の手入れをする
立った状態で腕を組む
飯を速く食う
PCに向かってキーボードを物凄く速く打つ

■萌え場所を答えよ
空港
研究所
図書館(国会図書館で萌えたことあります)
神保町の古本屋街

…なんだかアニメの「R.O.D. -READ OR DIE-」みたいになってしまいましたが以上です。

上記の属性に当てはまる方のご連絡をお待ちしています。

■萌を繋ぐ5人
誰に渡したらいいのか、非常に難しいので、今回はここで止めたいと思います。

2005年07月31日

ゲーム・バトン

「ミュージック・バトン」「コミック・バトン」に続いて、「ゲーム・バトン」というものが友人のほどり君から回って来ましたので回答します。(2005年7月)

脳髄茸:ゲームバトン


1) コンピュータに入ってるゲームファイルの容量

1GBくらいでした。PCゲームは昔は結構やりましたが、今は全然やってません。


2) 今進行中のテレビゲーム

去年出た「ドラゴンクエストV 天空の花嫁」のPlayStation2版(スクウェア・エニックス、2004年)ですが、最終ボス戦の直前までやったところで中断しています。ジャハンナを拠点に装備を整えているところです。暇をみて再開したいと思います。

ドラゴンクエストV 天空の花嫁(PS2)
ドラゴンクエストV 天空の花嫁(PS2)

オリジナルのスーパーファミコン版については後で触れますが、PS2版での主な変更点は以下の2点です。

・グラフィック(キャラ、ダンジョン、フィールド)の3D化。移動中はキャラの頭上から俯瞰するような視点で、ダンジョン内では視界の回転が可能(ただし回転範囲には制限があり、360度回転は不可)。フィールド上は丸みを帯びた地平線を見渡すような感じ。戦闘場面はオリジナルのSFC版と同じく主観視点だが、モンスターはアニメーションによる動きが付加されている。

・音楽のフルオーケストラ化。これはドラクエ史上、本作が最初の試み。それまではサントラCDでしか聴けなかった、NHK交響楽団による迫力のある演奏がゲーム中に楽しめます。

総じて、オリジナルのストーリーや世界観を尊重しつつも立体感・臨場感を増した演出になっており、とてもいい出来です。トロッコ洞窟とか、本当にトロッコに乗っているような感じがよく出ています。モンスターを仲間にできる馬車システムも健在。システム上、特に大きな変更点はないので、オリジナル版が好きな人も楽しめると思います。

結婚イベントではいつもの通りビアンカ(幼馴染)を選びました。毎回悩むんですが、結局いつもビアンカで、僕はフローラ(良家の令嬢)を選んだことがありません(幼馴染萌え)。


3) 最後に買ったテレビゲーム

去年PS2で出たドラクエの最新作、「ドラゴンクエストVIII 空と海と大地と呪われし姫君」(スクウェア・エニックス、2004年)です。裏面までクリアしました。完全3Dになったグラフィックが感動的でした。何もしないでただフィールドを走り回っているだけでも爽快感があります。かつてN64で「ゼルダの伝説 時のオカリナ」をプレイしたときに初めて感じたあのリアルな感じに近いものがあります(グリグリ動くので3D酔いする方は要注意)。

キャラをアニメ風に描画する「トゥーンシェーディング」という技術の導入により、3Dキャラもポリゴンのようなぎこちなさがなくて、アニメ風の自然な感じです(これは64ゼルダにはなかった要素です)。

戦闘場面はいままでの主観視点から客観視点に変更になっていて、キャラが戦う様子を見ることができます。その他、イベント・ムービーの挿入など、FFっぽいところもありますが、基本システムは旧来のドラクエそのままです。

ストーリー展開は古典的な王道路線で、ドラクエ5のような面白さはなかったと思います。

今回導入された「モンスタースカウト」というシステムは、モンスターのチームを作って格闘場で戦わせたり、戦闘中に助っ人として数ターン呼び出したり、といったことができるだけで、ドラクエ5のようにモンスターと一緒に戦い、成長するという感じではありません。

総評としては、ドラクエ8はとにかくグラフィックがすべてという感じがしました。グラフィック面だけが先行して進化していて、それ以外の点が追いついていない、という気がします。

システムが不変なのがドラクエのいいところだし、ユーザーもそれを支持してきたと僕も思いますが、今後はこのグラフィックの表現力をもっと有効に活用したゲームが作られるべきではないか、とも思います。ハードの性能が向上したりグラフィックの表現力が上がったりといったことが、そのままゲーム自体の進化には直結しない、ということを考えさせられました。

ドラゴンクエストVIII 空と海と大地と呪われし姫君(PS2)
ドラゴンクエストVIII 空と海と大地と呪われし姫君(PS2)


4) よく遊ぶ、または特別な思い入れのある5作

「ゼルダの伝説 神々のトライフォース」(任天堂、SFC版、1991年)

「ゼルダの伝説」シリーズはこのSFC版で初めてプレイしました。RPG的な冒険・謎解きの要素とアクションゲームの要素がうまく融合した、アクションRPGの最高峰ですね。ゲーム性が高くて熱中しました。このSFC版は当時のSFCソフトのなかではグラフィックが飛び抜けて綺麗でした。初心者にとっては難易度は決して低くはないので、ステージをクリアしたときの達成感が大きかったです。

現在のハードでは、ゲームボーイ・アドバンスの移植版で遊べます。

ゼルダの伝説 神々のトライフォース&4つの剣(GBA)
ゼルダの伝説 神々のトライフォース&4つの剣(GBA)


「ドラゴンクエストV 天空の花嫁」(エニックス、SFC版、1992年)

親子3代にわたるドラマティックなストーリーと、モンスターを仲間にして一緒に戦い、成長してゆくというユニークなシステムが魅力的でした。ドラクエ史上屈指の名作だと思います。穏やかで美しい管弦楽風の音楽も素晴らしいです。

最初にプレイしたときは途中でカジノにハマってしまい、1ヶ月くらいのあいだ、ずっとカジノでバクチばっかりやってて、何をどこまでやったのか全然わからなくなるという記憶喪失状態に陥りました。

今遊ぶなら前述のPS2版がおすすめです。


「真・女神転生」(アトラス、SFC版、1992年)

RPG「女神転生」シリーズの第3作。神と悪魔、秩序と混沌を軸とする独特のダークな世界観にハマりました。メガテンではこの第3作が一番好きです。悪魔を「仲魔」にして一緒に戦ったり、悪魔合体で強力な悪魔を創り出したり、といったシステムが面白くて熱中しました。ハードロック/プログレをベースにした音楽もかっこいいです。

今遊ぶならPlayStationの移植版がおすすめです。GBA版も出ています。

真・女神転生(PS)
真・女神転生(PS)


「スーパーストリートファイターIIX」(CAPCOM、アーケードゲーム、1994年)

2D対戦格闘ゲームの大ヒット作、「ストリートファイターII」シリーズの最終作です。ストIIはこのXが一番完成度が高くて面白かったと思います。一発逆転の技「スーパーコンボ」は迫力がありました。

ストIIは最初はSFC版の「ストリートファイターIIターボ」をやり込んで、友達と対戦したりしているうちにだんだんのめり込んでいって、ゲーセンでもやるようになりました。僕はメインキャラは春麗でした。ゲーセンで見知らぬ人とも随分対戦しました。

当時は家庭用ゲーム機の性能が今ほどよくなくて、このXも家庭用ではまともに遊べなかったので、大枚はたいてゲーセンのと同じ業務用アーケード基板を買ってきて、家のTVにつないで遊んでました。

スーパーストリートファイターIIX
スーパーストリートファイターIIX(AC)。「INSERT COIN」の表示が業務用の証し

ストIIにのめり込みすぎたせいか、「バーチャファイター」とか「鉄拳」とかのその後の3D対戦格闘ゲームは、まあ普通に好きだったという程度で、それほどハマりませんでした。

Xは過去にいくつかの家庭用ゲーム機で移植版が発売されていますが、いずれもアーケード版を完全に再現したものではないようです。今ならPS2版の「ハイパーストリートファイターII アニバーサリーエディション」がおすすめでしょうか。携帯ゲーム機ではGBA版「スーパーストリートファイターIIX リバイバル」もあります。

ハイパーストリートファイターII アニバーサリーエディション(PS2)
ハイパーストリートファイターII アニバーサリーエディション(PS2)

続編の「ストIII」は、シリーズ3作目がPS2で遊べます。

ストリートファイターIII 3rd STRIKE(PS2)
ストリートファイターIII 3rd STRIKE(PS2)


「シムシティ2000」(Maxis、PC版、1994年)

アメリカのMaxis社が開発したリアルタイム都市開発シミュレーションゲームの第2作。地形の造形から始められる自由度の高さがポイント。自分がデザインした都市が徐々に発展していくのが嬉しかったです。この第2作から導入された、クォータービュー視点による立体的な都市の景観は見ごたえがありました。

現時点の最新作は2003年に出た「シムシティ4」です。これはまだやってないんですが、暇があれば手を出したいと思います。近作ではグラフィックの精度や都市の規模、自由度がどんどん上がっていて、なんかえらいことになってますね。PCもかなりの高スペックじゃないと快適に動作しないみたいです(メモリが1GBないとスムーズに動かないとか…)。

シムシティ4 デラックス
シムシティ4 デラックス(Windows98/Me/2000/Xp)


5) バトンを渡す5名

バトンを受け取っていただけそうな以下の5名の方にお渡したいと思います。

真山さん
みずか緋未さん
gmさん
ynetさん
みっくん

もしよろしければご回答の程、お願い致します。

2005年07月24日

コミック・バトン

前回の「ミュージカル・バトン」に続いて、友人のほどり君から「コミック・バトン」というものが回って来ましたので回答します。(2005年7月)

脳髄茸:コミックバトン


1) あなたのコミックの所持数は?

わかりません。自室の本棚に入り切らないので、押入れや段ボール箱に収納しています。マニアやコレクターの人に比べれば全然少ないと思います。


2) 今読んでいるコミックは?

二ノ宮知子/のだめカンタービレ(2001年より少女マンガ誌「Kiss」にて連載)を単行本で読んでいます。音大が舞台の恋愛コメディーです。2004年度講談社漫画賞(少女部門)を受賞したヒット作ですね。

のだめカンタービレ(1)


3) 最後に買ったコミックは?

藤子・F・不二雄/ドラえもんプラス(1〜2巻)

ドラえもんプラス(1)


大和和紀/はいからさんが通る(全8巻)

はいからさんが通る(1)


上條淳士/SEX(全7巻)

SEX(1)


大場つぐみ・小畑健/DEATH NOTE(1〜7巻)

DEATH NOTE(1)

です。


4) よく読む、または思い入れのあるコミック

非常に多いんですが、個人的にこれだけははずせない、というのは…

手塚治虫/火の鳥(1954年〜1988年、「漫画少年」「少女クラブ」「COM」「マンガ少年」「野生時代」連載)

太古から未来に至る世界を舞台に、生と死、輪廻転生のドラマが展開する手塚御大のライフワーク。小学生のときに読み始めて、その雄大な世界観とテーマ性に夢中になりました。特に「黎明編」(COM版)「未来編」「復活編」「鳳凰編」「望郷編」が好きです。

その後は手塚マンガにどっぷりとはまりました。講談社の手塚治虫漫画全集を読んで、手塚治虫ファンクラブにも一時期入会していました。

火の鳥1 黎明編(1)


徳南晴一郎/怪談人間時計(1962年、曙出版より発行)

貸本マンガ時代のカルトな異色作品の一つ。不条理文学や表現主義美術のようなシュールな怪奇マンガ。意図的に歪めた絵とズタズタの時間感覚。1996年に太田出版から出た復刻版で初めて読んで、物語内容よりもその表現形式の異様さにびっくりしました。

怪談人間時計


白土三平/カムイ伝(第一部)(1964年〜1971年、月刊「ガロ」連載)

江戸時代の身分制度のもとで自由を求めて生きる様々な階級の人々(被差別民・農民・武士・忍び)を描いた歴史ドラマ。今読むと古典的な階級闘争史観が図式的で生硬な感じを受けますが、こういう本格的な歴史物はマンガ史上、画期的なものだったと思います。

こういう大長編はなるべくまとまってた方が読みやすいので、愛蔵版を買って読んでたんですが、今は絶版ですね。「決定版カムイ伝全集」というのが今年9月から刊行されるみたいです。

カムイ伝(1)


つげ義春/ねじ式(1968年「月刊ガロ」増刊号・つげ義春特集に掲載)

夢をもとにした奇怪な短編。不条理マンガ、純文学的な文芸路線の元祖として有名な作品ですね。最初に読んだときは衝撃を受けました。「ねじ式」以外では「沼」「ゲンセンカン主人」「夜が掴む」「外のふくらみ」「必殺するめ固め」「ヨシボーの犯罪」等の夢幻的な作品が好きです。つげ義春も全集をそろえました。中学生くらいの頃から、ガロ系のアングラなマンガにどっぷりと浸かってました。

つげ義春全集(6)


高森朝雄・ちばてつや/あしたのジョー(1968年〜1973年、週刊「少年マガジン」連載)

ボクシング/スポーツマンガの傑作として知られる不朽の名作。これも夢中になって読みました。少年院の頃のエピソードが特に印象的ですね。他には「1・2・3と4・5・ロク」とか「餓鬼」とか。「テレビ天使」持ってないので欲しいです。

あしたのジョー(1)


藤子・F・不二雄/ドラえもん(1969年〜1991年、小学館の学習雑誌他で連載)

何をやってもうまくいかない男子小学生、野比のび太を助けるために、未来の世界から来た猫型ロボットのドラえもんが…というような説明は不要ですね。藤子・F・不二雄(藤本弘)先生の代表作としてあまりにも有名な国民的人気マンガ。日常生活に密着したSFコメディー。これが最初に読んだマンガだったと思います。小学1年のときに読み始めて、小学館の単行本(てんとう虫コミックス)をバイブルのように、ボロボロになるまで繰り返し読み返していました。SF・思考実験的なエピソードが特に好きでした。1970年代は印象的なエピソードが多かったと思います。

1977年に創刊された雑誌「コロコロコミック」は初期の頃は藤子不二雄作品が中心で、「ドラえもん」の新作がたくさん載っていてまさに夢のような雑誌でした。

「ドラえもん」以外では「21エモン」「モジャ公」「キテレツ大百科」「エスパー魔美」、各種SF短編などが好きです。藤子不二雄A(我孫子素雄)先生の一連の怪奇・ブラックユーモア・大人向け作品も大好きで、小学生の頃ドキドキしながら読んでました。「黒ベエ」「笑ゥせぇるすまん」「魔太郎が来る!!」「少年時代」「まんが道」「毛沢東伝」、各種大人向け短編などが特に好きです。

昔中央公論社から出ていた全集(藤子不二雄ランド)は結構買っていて、「ドラえもん」の単行本未収録作品やその他のマイナーな作品はこれで読んでいたんですが、全部そろえないうちに絶版になってしまい残念です。この全集に収録されていた藤子不二雄A作品は現在「藤子不二雄Aランド」として復刊されていますが、藤子・F・不二雄作品の方も復刊を切望します。

ドラえもん(1)


山上たつひこ/光る風(1970年、週刊「少年マガジン」連載)

近未来の日本を舞台に軍国主義の狂気と細菌兵器の恐怖を描いたポリティカル・フィクション。山上たつひこが「喜劇新思想大系」や「がきデカ」でギャクマンガに転向してブレイクする前の、シリアス時代の傑作です。細菌兵器で奇形化した人々の描写とか両手両足を失った兵士が叫ぶシーンとか、恐怖の質がハンパじゃなかった。

ところで、誰か「半田溶助女狩り」の中古の良品を安値で譲ってくれる人、いませんか?

光る風(1)


永井豪/デビルマン(1972年〜1973年、週刊「少年マガジン」連載)

人類と悪魔族の戦いを描いた恐怖SFの傑作。黙示録的な世界観にシビれました。アニメ版も好きでした。「鬼」をテーマにした「手天童子」もSFとしてすごくよくできていて夢中になりました。

デビルマン(1)


萩尾望都/ポーの一族(1972年〜1976年、「別冊少女コミック」連載)

数世紀にわたって生き続ける吸血鬼の一族を描いた名作。少年愛物の「トーマの心臓」も好きでした。24年組(萩尾望都、竹宮恵子、大島弓子、山岸涼子等)はかなりのめり込んで読みました。

ポーの一族(1)


美内すずえ/ガラスの仮面(1976年「花とゆめ」連載開始)

演劇界が舞台の大河ドラマ。古典的な物語性という点では最右翼のマンガで、僕も熱中した時期がありました。最終章(「紅天女」)に入ってからもう何年たつのか…いまだに完結していません。近年は完全に単行本描き下ろしになってますね。時代背景的には1980年代前半くらいだった筈ですが、去年出た最新巻(42巻)ではいつのまにか舞台が現在になっちゃったり(カメラ付き携帯電話が重要なアイテムとして登場したり)とか、突っ込みどころも多いですが…。

ガラスの仮面(1)


鴨川つばめ/マカロニほうれん荘(1977年〜1979年、週刊「少年チャンピオン」連載)

1970年代後半に宇宙一面白かったギャグマンガ。
山上たつひこが「がきデカ」でブレイクした後の1970年代後半はギャグマンガの黄金期で、江口寿史の「すすめ!! パイレーツ」や田村信の「できんボーイ」などの傑作が生まれましたが、そのなかでもこれは凄かったです。脈絡のないナンセンスなドタバタという点では最も徹底していて、「爆発的な笑いを喚起する」という意味でまさに「爆笑」させるマンガでした。
ギャグマンガは多分に時代の気分を反映した感覚的な部分が大きいので、今読んでも当時のように笑えるかは非常に疑問ですが。

マカロニほうれん荘(1)


楳図かずお/わたしは真悟(1982年〜1986年、週刊「ビッグコミックスピリッツ」連載)

恐怖マンガの巨匠による異色作品。小学生男女のプラトニック・ラヴによって工業用ロボットが意識を獲得し、生命として生きはじめるという奇跡を描く。「漂流教室」「洗礼」「イアラ」「愛の奇跡」も好きです。「赤んぼう少女」「へび少女」とかのホラー作品も子供の頃はすごく怖くてインパクトありましたね。「14歳」は「わたしは真悟」みたいに綺麗にまとまってないんですが、延々と続く荒唐無稽な悪夢のような感じが好きです。

わたしは真悟(1)


望月峯太郎/ドラゴン・ヘッド(1994年〜1999年、週刊「ヤングマガジン」連載)

天変地異後の世界で生き延びようとする高校生が主人公のサバイバル・スペクタクル漫画。予測不可能な物語展開がスリリング。恐怖とは何か、という根源的なテーマを追求した作品だと思います。

ドラゴン・ヘッド(1)


…きりがないので今回はこの辺で終ります。


5) バトンを渡す5名

バトンを受け取っていただけそうな以下の5名の方にお渡したいと思います。

辻本さん
taku_itoさん
Fionaさん
眞人さん
MAOさん

もしよろしければご回答の程、よろしくお願い致します。

2005年07月18日

ミュージカル・バトン

友人のほどり君から「ミュージカル・バトン」を受け取りました。(2005年7月)

脳髄茸:ミュージックバトン

これは音楽好きのブロガーのための企画で、アメリカ合衆国で始まったもののようです。参加者は音楽に関するいくつかの質問に答えた後、他の5人の人にバトンを渡します。

以下は質問と私の回答です。

1) Total volume of music files on my computer is:
(コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量)

61MBでした。ふだん音楽はCDで聴いているので、PC上には音楽ファイルはほとんどありません。

2) Song/tune playing right now:
(今聞いている曲)

ガブリエル・フォーレの「レクイエム」です。カトリック教会のミサ曲です。死者のための祈りの歌ですね。私はキリスト教の信者ではないんですが(というか無神論者ですが)、この曲を聴いていると穏やかで優しい気持ちになります。

Requiem

アンドレ・クリュイタンス(指揮)、ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレス(ソプラノ)、ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)、エリザベート・ブラッスール合唱団、パリ音楽院管弦楽団による演奏。1962年録音。

2) The last CD I bought was:
(最後に買ったCD)

Lotus Eaters/No Sense of Sin (1984)

今まで同タイトルの日本編集盤CD(オリジナル・アルバムからの9曲に12インチシングル曲等の未収録曲を追加したもの)しか持ってなかったので、オリジナル盤を注文しました。でもまだ届いてません。

No Sense of Sin

3) Five songs/tunes I listen to a lot or mean a lot to me are:
(よく聞く、または特別な思い入れのある5曲)

J.S.Bach/The Goldberg Variations, Glenn Gould (piano), recorded in 1981
J.S.バッハ/ゴルトベルク変奏曲、グレン・グールド(ピアノ)、1981年録音

The Goldberg Variations

グレン・グールド(p)の晩年の再録音の方です。カイザーリンク伯爵の不眠治療のために作曲されたと伝えられる曲ですが、スピードは変幻自在(極端に速かったり遅かったり)、鮮烈で歯切れがよくまさに目の覚めるような演奏。このCDを聴いてから、クラシックを真剣に聴くようになりました。

Debussy/String Quartet in G Minor, Op.10, Alban Berg Quartett, recorded in 1984
ドビュッシー/弦楽四重奏曲、ト短調、作品10、アルバン・ベルク四重奏団、1984年録音

Debussy / Ravel / Stravinsky: String Quartets

近代フランス印象派の傑作の一つですね。

Eric Dolphy/Out to Lunch, from the album "Out to Lunch", recorded in 1964
エリック・ドルフィー/アウト・トゥ・ランチ、アルバム「アウト・トゥ・ランチ」に収録、1964年録音

Out to Lunch

変拍子ジャズです。ジャズに関しては、セロニアス・モンクやエリック・ドルフィー等の前衛系のものが好みです。

The Pop Group/She is Beyond Good and Evil, released in 1979
ザ・ポップ・グループ/シー・イズ・ビヨンド・グッド・アンド・イーヴィル、シングル曲、1979年発売

Y

デニス・ボーヴェル・プロデュースの1stシングルです。中高生の頃、英国のニューウェイヴ/ポスト・パンク系のバンドが好きでした。

Ambitious Lovers (Arto Lindsay)/Let's Be Adult, from the album "Envy", released in 1984
アンビシャス・ラヴァーズ(アート・リンゼイ)/レッツ・ビー・アダルト、アルバム「エンビィ」に収録、1984年発売

Envy

ピーター・シェラーのシンセとドラムマシンをフィーチュアしたシンセ・ポップです。それほど有名な曲ではないですが名曲だと思います。この頃(1970年代後半〜1980年代前半)のテクノ・ポップやエレクトロ・ポップは今でも好きです。

4) Five people to whom I'll be passing the baton are:
(バトンを渡す5人)

バトンを受けとっていただけそうな以下の5名の方々にお渡ししたいと思います。いずれも以前にトラックバックをいただいたことのある方です。

Tauさん
bwv54さん
Composer Xさん
hide3190ymoさん
Imanomaiさん

パトリック・ベニーさんに渡そうと思ったんですが、すでに回答をなさってますね。
Le baton musical

2005年07月12日

ジョン・パーカー・コンプトンさんからのメール

米国のミュージシャンのJohn Parker Comptonさんという方から英文のメールをいただきました。(2005年4月)

内容は、以下のCDを注文したいと思っている、というものでした。

中山ラビ/ひらひら (1974)
チューリップ/2000 millennium BEST チューリップ・ベスト (1972-84)
大瀧詠一/A LONG VACATION (1981)
吉田美奈子/扉の冬 (1973)
尾崎豊/十七歳の地図 (1983)

いずれも私の個人サイトの邦楽おすすめCDのページで(つたない英語で)紹介しているもので、私のサイトへは検索エンジン経由で来られたものと思われます。

ジョン・パーカー・コンプトンさんがどういう方か、即答できる人はおそらく洋楽ロック/フォークのマニアの方でも非常に少ないでしょう。(すいません、私も不勉強で知りませんでした。)

米国の音楽情報データベース、all music等のサイトで調べたところ、コンプトンさんは1950年生まれの歌手/作曲家/ギタリストで、1960年代後半にヴァイオリニストのロビン・バトゥー(Robin Batteau)とアコースティックなバンド「Appaloosa」(アパルーサ)を結成。アパルーサは地元マサチューセッツ州ケンブリッジのフォーク・シーンに多大な影響を受けたバンドで、1969年にアルバム「Appaloosa」をリリースしたとき、コンプトンさんはまだ18〜19歳だったとのこと。

このアルバムには当時、ブラッド・スウェット&ティアーズを脱退してコロンビア・レコードのプロデューサーをしていたアル・クーパーがプロデュース・アレンジで全面参加しており、BS&Tのメンバーも参加しているとのこと。

その後、ロビン・バトゥーとのデュオ、コンプトン&バトゥー(Compton & Batteau)としての活動を経て、1970年にはソロ・アルバム「To Luna」を録音。その後、20年以上のブランクを経て、1990年代中頃にレコーディング活動を再開されておられる模様。

いただいたメールによると、現在はヴァーモント州ブラトルボローでご自身のレーベル「VMC RECORDS」を運営されておられるそうです。

ジョン・パーカー・コンプトンさんの公式サイト: The John Parker Compton Official Website

コンプトンさんは日本にご興味がおありの様子で、現在制作中のCDには(日本の学生が歌う)日本語の歌詞を含む新曲がフィーチュアされている、と話して下さいました。

で、コンプトンさんご所望の上記の邦楽CDのセレクションですが、中山ラビ、吉田美奈子、チューリップあたりはフォーク系ということでなるほどという感じがするのですが、尾崎豊の「十七歳の地図」はどうなんでしょうか。まあ、ボブ・ディラン〜ブルース・スプリングスティーン、ジャクソン・ブラウン〜尾崎、という流れを考えるとそれほど無縁でもないのかもしれませんが。

コンプトンさんには、邦楽CDを扱っている英語のサイト(cdjapanとか)で注文できます、ということをメールで返信しておきました。
ただ、中山ラビ「ひらひら」や吉田美奈子「扉の冬」のようにインディーズ・レーベルで再発されたものは、英語のサイトでは扱っているところが少なく入手は困難のようなので、現在はAmazon.co.jpのみでしか注文できないようであると補記しておきました。

また、上記邦楽CDのなかでは大瀧詠一の「A LONG VACATION」が私のお気に入りである、ということも申し添えておきました。

1970年代初頭、19歳のときにライヴハウス「フィルモア・イースト」でオールマン・ブラザーズ・バンドやブラッド・スウェット&ティアーズと共演していたコンプトンさんは、1980年代の日本のカリスマ、尾崎豊が高校在学中にリリースした「十七歳の地図」を聴いて、はたしてどのような感想を抱かれるのでしょうか。

Senaさんからのメール

Senaさんという女性の方から以下のような英文のメールをいただきました。(2005年1月)

「詩人/歌手/作曲家のJeanette Sena Muehlmannと申します。ドイツのミュンヘン出身で、現在はニューヨークのブルックリンに住んでいます。」
「加橋かつみさんを探しています。だいぶ以前に、最初はスイスで、その後はパリで彼に会いました。1968年の3月か4月のことだったと思いますが、彼はパリでミュージカル『ヘアー』の『クロード』を演じることになっていました。私はそのときとても若くて、私たちはお互いを非常に気に入りました。彼は私をパリの音楽スタジオに連れて行ってくれて、とても面白かったのですが、私はドイツに帰らなくてはならず、彼も日本に帰国しました。」
「現在私は自分のレーベルを立ち上げていて、彼とコンタクトを取りたいと思っています。また、彼がどうしているか、まだ音楽をやっているのか知りたいと思います。」

加橋かつみさんは1960年代後半にザ・タイガースのメンバー(ギター・ボーカル)だった方で、その後はソロ・アーティスト、音楽プロデューサーとして活動されている方です。

加橋かつみファンサイト: KATSUMI KAHASHI WEB

Jeanette Sena Muehlmannさんの公式サイト: sena-music.com

私の個人サイトの邦楽おすすめCDのページではタイガースのアルバム「世界はボクらを待っている」を取り上げていて、英語ページの方でも紹介しているので、おそらくサーチエンジンで加橋さんの名前で検索して私のサイトがヒットしたものと思われます。

Senaさんは1968年と書いていますが、加橋さんは1969年3月にタイガースを脱退し、4月に渡仏してソロ・アルバム「パリ 1969」を録音、帰国後の12月〜1970年2月に舞台ミュージカル『ヘアー』に出演されていますので、これは1969年の誤りでしょう。

Senaさん曰く、「Sena」というのは後年の名前で、当時は「Jeanette」と名乗っていた、とのことです。

Senaさんには、加橋さんがまだ音楽活動を続けられていて、ライヴ活動も行っておられることを伝えておきました。

加橋さんは公式サイトをお持ちではないようで、連絡先が分からなかったので、とりあえず上記の公式ファンサイトの管理者様宛に連絡してみたところ、管理者様からはご丁寧な返信をいただきました。管理者様によると、加橋さんはメールアドレスを持っていないので、メールでの返信ができないため、メールアドレス以外の連絡先を教えていただきたい、とのことでした。
その旨をSenaさんに伝えたところ、FAX番号を連絡していただきましたので、管理者様に転送しておきました。

その後、連絡は取れたのでしょうか…?